今、この墓地には1人の方が来ています。

拉致被害者曽我ひとみ様の夫、ジェンキンス様が亡くなりました

2017年12月31日

今まで16人の人がこの方のお墓参りに訪れました。

北朝鮮に拉致された曽我ひとみ様の夫、チャールズ・ジェンキンス様が佐渡市の病院でお亡くなりになりました。77才でした…

 

北朝鮮へ国境を超える

アメリカのノースカロライナで生まれた故人様でしたが、当時は在韓米軍として参加していました。

当時は朝鮮戦争が休戦したものの、冷戦時で緊迫した時期。故人様は祖国を脱走し、北朝鮮に逃亡することを決意します。

故人様の思いを知る術は今となってはありませんが、管理人なりに思案してしまいます。

たとえば…

自分の国のベクトルのせいで、なぜ自分が戦争に駆り出されなければならないのか?

最近の情勢からすると、そう考えたとしてもおかしくはありませんね…

BBCニュース:アメリカ外交官によるロシアに対する思惑

↑ヌーランド米外交官によるEU、ウクライナに対する圧力についての記事です。ここらへんは現在の冷戦の火種とも言えますよね。こういった方のために自分が戦争に参加したくなくなるというのは、誰でもそうなんじゃないかな、と思います。(自分の国に協力しないだけでヒス起こすような利己的な人々に協力したくないですよね

また、当時は北朝鮮に関する情報が少なかったらしく、渡る前は理想の国と考えていた人々もいたようです。(嘘のような本当の話)

朝日新聞:よど号ハイジャック犯「帰りたい」

 

39年に及ぶ北朝鮮での生活

亡命直後の北朝鮮は配給が辛うじて行われている段階で飢えはそこまでなかったようです。(実際に飢えている映像などは社会主義崩壊後の外国からの援助が打ち切られた後のものが多いです)

そして、亡命から数年経ったある日、日本から拉致された曽我ひとみ様と結婚なされました。

19才の年の差のある結婚でした。

しかし、結婚した頃にもなると北朝鮮は壊滅的な食糧不足に陥っていましたから、それ以降はとても苦労したと思います。結婚生活も平坦な道とはとてもではないですが言えなかったでしょう…

帰国と収監、そして日本へ

曽我ひとみ様が2002年に日朝首脳会談を経て帰国した2年後、故人様と娘2人も来日しました。

しかし、故人様は脱走兵の一人

アメリカに収監され子供や妻と離れ離れになります。

晩年は土産屋などで働き観光客に親しまれていました

刑期が終わった後は娘様と暮らしながら佐渡市の土産屋などで働き、観光客に親しまれました。

ちなみに、著書「告白」では北朝鮮での生活について書かれており、

  • マインドコントロールも洗脳もなかった
  • 仕事は北朝鮮にあまりさせてもらえなかった
  • 曽我ひとみ様が帰った後は、酒に溺れることもあった

といったことが書かれています。

興味があれば読んでみるのも良いかもしれませんね…

 

妻、曽我ひとみ様のコメント

12日現在、妻のひとみ様は佐渡市を通じて

突然のことで大変びっくりしており、落ち着かない状態です。今は何も考えられないので、後で落ち着きましたらコメントなどを出させていただきます

というコメントを出されています。

ひとみ様が落ち着きましたら、この記事に再度載せることにします。
2017年12月27日追記

佐渡市より発表された妻である曽我ひとみ様の手記

 このたびは、夫の死去に対しまして関係者ならびに生前をご存じの方たちにはご心配をおかけしました。突然の訃報に驚かれたことと思います。私たち家族もいまだ亡くなったという現実を受け入れるには、もう少し時間をかけなければという思いで日々を過ごしています。

今、やっと少し考える時間が取れるようになり、夫との出会いから今日に至るまでを思い返しています。思えば、夫とは37年前北朝鮮の地で出会い、結婚し、子供が生まれ、苦楽をともにし何とか家族としての形を作り上げてきました。出会った当初私は、いまだ北朝鮮の生活に慣れず、現地の人を警戒している時期でした。そんな中で彼との出会いは、あまり多くの時間を要することはできなかったのですが、信用するに値する行動と誠意を示してくれました。結婚後、2人の娘にも恵まれ、生活水準は厳しいものでしたが、生来の器用さで生活に必要な物を工夫してさまざまな物を作り出してくれました。

ベッド、椅子、おもちゃの車などを作ってくれました。特に車のおもちゃは、自信作だったのか娘たちを乗せてよく遊んでいた姿を思い出します。 また、夫のバイク好きは日本でも周知のことですが、北にいたときは、あまりにもバイクに乗りたい思いが募り、どこからか廃車寸前のバイクを持ってきて修理を始めてしまいました。いつの間にか使えそうなパーツを集め、ネジや細かい部品は工場まで出かけていき自分の思う通りに加工してもらって、ついに動くバイクを作ってしまいました。これには、さすがに私も娘たちもあきれ返るしかありませんでした。でも、バイクのエンジンがかかり動くことが確認できたときの夫の何ともうれしそうな、今でいうところのドヤ顔を忘れることはないでしょう。

北での生活は言わずもがな、紆余(うよ)曲折ありました。それでも、家族4人大きな病気もなく過ごせたことは、一番の幸せだったのではないでしょうか。その中で15年前、私が拉致被害者であることが確定し、日本に一時帰国することが決まりました。それには、夫の後押しがあったから実現できたのだと思っています。日本へ帰りたい思いを一番理解してくれていたのが夫でした。

1人で帰国することをためらう私に「君は日本に行くべきだ」と背中を押してくれたのです。あの言葉があったから今、日本で生活することができるのだと言っても過言ではないでしょう。今思い返しても、彼の決断にとても感謝しています。その後は、皆さんもご存じのとおり、彼の処遇問題で日本に家族を呼び寄せるのに2年近くの時間を要しましたが、インドネシアで再会し家族との話し合いを重ね、私の意見を尊重し日本に来ることに同意してくれたのです。

日本に来てからもさまざまなことがありました。でも、そのたびに家族で話し合い、支え合いながら努力してきました。佐渡に永住することを決めてから13年、夫なりに一生懸命に生きてきたのだと思います。日本語ができないハンディがあっても仕事だけはずっと続けてきました。きっと、私や娘たちには想像もできないことも多々あったでしょう。けれど、接客業ということもあり、嫌な顔もせずお客さまの要望に応えていたと聞いています。笑顔でエールを送ってくれるお客さまとのふれあいは、言葉が分からなくてもうれしい時間だったのではないでしょうか。北朝鮮で苦労しながら過ごした40年を日本で暮らす13年で上書きできたのではないかと思っています。

 

とにかく、前触れなく突然亡くなったので、気がつけば葬儀が終わって、事後処理に追われ今日まできてしまいました。今いくつか後悔していることがあります。大好きなチーズをもっとたくさんいろんな種類の物を食べさせてあげたかった。仕事を理由に2人でゆっくり話す時間を設けなかったこと、夫も話したいことがたくさんあっただろうと思います。いまさらですが一言謝らせてください。本当にごめんなさい。

それから、私の母に会わせてあげたかった。くしくも今月28日は母の誕生日が来ます。以前から母の誕生日前後は憂鬱(ゆううつ)になるというのに、夫の亡くなった月も12月とは、さらに気分が落ち込んでしまいそうです。それでも、日々は過ぎてゆき、また明日が来ます。これから私と娘の2人暮らしが始まります。力を合わせ、互いに支えあいながらお世話になった方たちに感謝しながら生きていきます。どうか、私たち2人を見守っていてください。今までありがとうございました。そして、77年の人生お疲れさまでした。ゆっくり休んでください。

平成29年12月25日

曽我ひとみ

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故人への想いの数々

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